都市の風景
2007-06-19

−江坂−
「現実に動いている都市を撮るということは、美しい部分と暗い部分の中間の、ごちゃごちゃしたところに目を向けていくことだと思うんですよ。それを、ハエ取り紙の上を低空飛行すること、あるかなきかの飛ぶ角度を求めることだ、といっているんです。ちょっと足をとられたら終わりの、ぎりぎりの角度ですね。−−(中略)−−僕の写真なんか展覧会で見せられても面白くもなんともないんじゃないか。ただ、僕はその中にこそ見えるものがある、読み解くものがあると思うからやっているわけで。
−『アサヒカメラ』2007年4月号/高梨豊インタビュー−
いつもいつも変哲のない、それでいて強烈なインパクトを残す写真、写真家。
今回の『囲市』(かこいまち)も、最初よりは2度目、2度目よりは3度目というように、染み込んでくる、まるで、都市の風景そのものような写真だ。
EXIT
2006-11-16

どこかのブログだったかMixiだったか覚えていないが、北村昌士が書いた文章
について、「プログレを更に難解に解説する」とかと書いてあった。
“プログレッシヴ・ロック”が難解であるかどうかはともかく、北村の書くも
のがことさらに難解であるとは思ったことがないし、今も思ってはいない。あ
れが難解であるとすれば、生や思索について書かれた文章のほとんどは難解な
ものであるだろう。村上春樹でさえも…。
北村昌士は、音楽を通して生きることを思考し、世界と対峙しようと試みてい
たのだと思う。それは所謂娯楽などではなく、生理であり存在することと同義
であった。ちょうど、中平卓馬が写真家であるのと同じである。寺島珠雄の初
詩集の扉に、「これは私の生理である」と書かれていた。
今も昔も相変わらず、音楽雑誌にせよカメラ雑誌にせよ、売上げのための似非
批評(批評などとは言えない提灯記事)が圧倒的である。そんな中で、初期
『Fool's Mate』は、思考と感性を鍛えるような批評を展開していたと思う。
Canis LupusやYBO2などで聴く北村昌士の音楽も、書くことに劣らず、高い批
評性があった。己の生を、存在を突破しようとする批評性が。

−大津市石山−
ショック
2006-07-05
写真よさようなら
2006-04-02

-梅新東-
森山大道の『写真よさようなら』が発売された。
「−(略)−キザなタイトルなんて受け取られるかもしれないけど、写真、写真と安心立命しちゃって、写真への一点の懐疑ももっていない写真、つまりぼくに言わせればリアリティ欠落の写真、そんないまの写真の在りようへのボクの嫌悪と訣別ってほどの意味なんだ。あとは実際にできてみなきゃわかんない。−(略)−」
ネガもプリントも残っていない「原本」から、こんな中平卓馬との対話は割愛され、新しい本として出版されたという。
理会しない人にとっては、昨日の新聞ほどの意味もないかも知れないし、H.C=ブレッソンや土門拳の写真のように、誰彼なしに見なさい、買いなさいとは言えないが、僕にとっては、原点であり、越えるべき頂点でもある。
http://www.superheadz.com/books/sayounara/
上記、中平卓馬との対話は、『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』(青弓社/2000.5)で読むことができる。
矩形
2006-02-18
Bonne Annee!
2006-01-01
金沢21世紀美術館
2005-10-24


















